真言宗の歴史

1.仏教から密教へ

仏教は、今から2500年ほど前にインドで釈尊仏陀(ガウタマ・シッダールタ)が悟りを開かれたことを出発点とした「釈尊仏陀の教え」であり、キリスト教やイスラム教と並んで世界三大宗教に数えられています。仏陀(Buddha)とは「目覚めた人」という意味であり、心の豊かさについて、どうやって心の悩みや苦しみをなくすか、どうやって完全な人格を作るかという方法を教えました。「仏教は人間学だ」と表現されている先生もいらっしゃいます。まさしく理にかなったお言葉と思います。当時の仏教は無神教(むしんきょう)といったほうがよく、神の崇拝や釈尊仏陀自身を仏として崇拝することを許しませんでした。

さて、仏教では戒律を遵守する、禅定する、智慧を獲得するという三項目を「三学」と呼び、ことさら「実践する、実行してみる」ことが重要とされました。初期の教学では三法印(四法印)や十二縁起、四諦八正道(したいはっしょうどう)が、大乗仏教時代になると波羅蜜(はらみつ)、仏性・如来蔵思想などが展開していきました。

インドで生まれた仏教は、やがて、中央アジアを通って、中国、モンゴルなどに伝わり(これを北伝仏教といいます)、その後、朝鮮半島を経由して6世紀頃日本に伝来したとされています。またインドからセイロン(現スリランカ)を経由した仏教は、11世紀にはビルマ(現ミヤンマー)やタイへと伝わりました(これを南伝仏教といいます)。

このように仏教は世界各地へ広がりますが、弘法大師・空海(くうかい)によって開かれた真言宗は、仏教の中でも比較的中期から後期にかけて展開された「密教」であるといわれます。

※高野山真言宗総本山金剛峯寺HPより抜粋

2.密教と真言宗

真言宗は、弘法大師空海が平安時代初期に大成した真言密教の教えを教義とする教団です。真言密教の「真言」とは、仏の真実の「ことば」を意味していますが、この「ことば」は、人間の言語活動では表現できない、この世界やさまざまな事象の深い意味、すなわち隠された秘密の意味を明らかにしています。弘法大師は、この隠された深い意味こそ真実の意味であり、それを知ることのできる教えこそが「密教」であると述べています。それに対して、世界や現象の表面にあらわれている意味を真実と理解している教えを「顕教(けんぎょう)」と呼んでいます。「顕教」とは、声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)の教え(二乗)と法相宗、三論宗さらに天台宗、華厳宗などの大乗仏教を指しています。

密教と顕教の違いは、いくつか指摘できますが、もっとも根本的な違いは、この隠された秘密の意味を知る修行のあり方(修法・しゅほう)にあります。真言密教の修法を三密加持(さんみつかじ)とか三密瑜伽(さんみつゆが)などと言いますが、精神を一点に集中する瞑想(三摩地・さんまじ)のことです。特徴としては、仏(本尊)の身(み)と口(くち)と意(こころ)の秘密のはたらき(三密)と行者の身と口と意のはたらきとが互いに感応(三密加持)し、仏(本尊)と行者の区別が消えて一体となる境地に安住する瞑想を言います。弘法大師は、このあり方を仏が我に入り我が仏に入る、という意味で「入我我入(にゅうががにゅう)」と呼んでいます。弘法大師は、顕教にはこの入我我入とも言うべき瞑想が欠けていると述べています。もっとも、平安時代後期から鎌倉時代にかけて登場する新仏教については、真言密教の教学や修法の影響を受けていると考えられますので、一概に顕教には瞑想が欠けているとは言えません。 もう一つ顕教との違いをあげると、仏や菩薩についての理解があります。顕教の仏や菩薩などは、さとりを開いたり、さとりを求める「人」ですが、密教の仏や菩薩たちは、宇宙(法界)の真理そのもの(法)です。その「法」が身体的イメージとしてとらえられているのが仏や菩薩なのです。密教の仏や菩薩たちを法身仏(ほっしんぶつ)と呼ぶのはそのためです。

弘法大師は、この法身仏つまり法界の真理そのものが、わたしたちに直接真理の智慧(ちえ)を説いているあり方を「法身説法(ほっしんせっぽう)」と述べています。この智慧の説法を聞く時空が三密加持(入我我入)の境地ということになります。その意味で、真言宗とは、仏と法界が衆生(しゅじょう)に加えている不可思議な力(加持力・かじりき)を前提とする修法を基本とし、それによって仏(本尊)の智慧をさとり、自分に功徳を積み、衆生を救済し幸せにすること(利他行・りたぎょう)を考える実践的な宗派と言えます。

※高野山真言宗総本山金剛峯寺HPより抜粋